幸福論の風―2009年6月 母の思い出とともに記すー
春、桜の季節になると決まって思い出すのは萩原朔太郎の詩、『月に吠える』の中の「春の実体」だ。満開になった桜をどう形容したものか、桜を題した数限りない書物や表現の中、たいして読書量もない私が、偶然にも出会ったまさに釈然とする詩だった。「春の実体」のどの言葉というより、数行が成す一連の詩全体から湧き立つもの、匂い立つものが何より私の中の満開の桜を言い当てているのだった。そのことに気づいたのは大学生のころだったと思う。だからといってその詩を暗誦できるわけでも、特に萩原朔太郎に憧憬しているというわけでもない。ただ、「あの人のあの作品」と思い当たるだけのことで時々眺めてみたりするだけだ。こういうのを「第二の知識」というらしい。
昨年の五月、私は母を亡くした。一年半前、転院し最後の砦となった病院では緩和ケア(身体の痛みを和らげたり心のケアをおこなって、がんなどの治療と並行して行われる医療)病棟を入退院して過ごした。その病棟は、便利に作られていて浴室やコインランドリーも用意されていたので、私が看病に行った時には時々利用していた。
あるときランドリーに行くと、そこには二十歳にとどくかとどかないかくらいの若い女の子がいた。頭にはピンク色のバンダナを巻いている。薬の副作用のためだとすぐにわかった。傍にはその少女とそっくりな顔をした少年が、まるで三六〇度少女を護衛するようにぴったりと寄り添っている。おそらく双子の兄妹だろうと思われた。私はその光景に呆然と見入った。やがてあまり見つめては失礼と思い、居たたまれなくなって一旦母の病室にひきあげた。
今年に入り一周忌を過ぎても母の記憶は毎日のように蘇る。それとともに時折あの少女のことも思い出された。護衛をするように傍を離れなかった少年もそうだが、少女はいっそうの鮮烈さを持っていた。そしてほんの一瞬の出来事なのにすっかり私の記憶の一部になったその少女の姿や表情を何と表現したものかと思いめぐらしたりするのだった。
単純な話題にするとしたら、おそらく「天使のような女の子に出会った。」ということになるだろう。ところが実際はそんな表現ではとても言い表せない。あの姿、眼差し、全身から放つ不思議な輝き、この世のものとは思えないようなより澄んだ光が強くも弱くも醸し出されているようで、どんなふうに語ればよいのか、絵が描けたら果たして表現できるものだろうか、パステル調の濃淡でそれは表されるものだろうか、それとも古いヨーロッパの教会に響く多声音楽だろうか。どれをとっても今ひとつのような気がした。
そしてあるとき、突き抜けるように閃いた。
ヘッセの「幸福論」だ。
しかし、これと確信しながらも同時に「幸福」とは全くの対極におかれているであろう少女と「幸福論」がどうして結びつくのか疑問も湧いた。ヘルマン・ヘッセはドイツの作家であり詩人だ。私の遠い記憶の片隅に追いやられたヘッセの詩の一部が少女と結びつくのかとも思ったが、とりあえず「幸福論」を読んでみた。
そこには少年時代のヘッセが、ある朝目覚めた時の光景と感覚が語られていた。見たこともない外国の風景、屋根瓦を照らす朝日の輝き。美しい情景と「幸福」に包まれた少年の朝のまどろみ。そしてヘッセの「幸福」に対する分析や感じ方。懐かしい気分で読み返した。
その後、6月のある日、用事があって昼間の電車に乗った。梅雨時でもその日はよく晴れ、夏の間近さを思わせた。昼間の電車に乗ると母を見舞いに出かけていたころを思い出す。私は暇にまかせて再び本を取り出した。
そして思った。
あの時の少女は当然のことながら幸福の中にいたわけではなく、また、その少女を目にできた私が幸福だったということでもなく、ただあの少女は「幸福が何かを知っていた」のではないか。しかも理屈ではなく心と体のすべてをして幸福たることの真の意味を認識していたのではないか。
そう考えて再び「幸福論」を読み進めると今度は涙が出てきた。不思議な光に包まれた少女の姿を通しながら、ヘッセが著した「幸福論」というものが初めて伝わってきたように感じられたのだった。そして電車に揺られながら、その感覚が私の中をいつまでも駆け巡り、乗った電車そのものをも包み込んでどこまでも永遠に走り続けるかのように思われた。
これからはあの時の少女の記憶とともに、ヘッセの「幸福論」を思い出すようになるのだろう。
「月に吠える」 「萩原朔太郎詩集」河上徹太郎編より 新潮社
「幸福論」 ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳 新潮社
春、桜の季節になると決まって思い出すのは萩原朔太郎の詩、『月に吠える』の中の「春の実体」だ。満開になった桜をどう形容したものか、桜を題した数限りない書物や表現の中、たいして読書量もない私が、偶然にも出会ったまさに釈然とする詩だった。「春の実体」のどの言葉というより、数行が成す一連の詩全体から湧き立つもの、匂い立つものが何より私の中の満開の桜を言い当てているのだった。そのことに気づいたのは大学生のころだったと思う。だからといってその詩を暗誦できるわけでも、特に萩原朔太郎に憧憬しているというわけでもない。ただ、「あの人のあの作品」と思い当たるだけのことで時々眺めてみたりするだけだ。こういうのを「第二の知識」というらしい。
昨年の五月、私は母を亡くした。一年半前、転院し最後の砦となった病院では緩和ケア(身体の痛みを和らげたり心のケアをおこなって、がんなどの治療と並行して行われる医療)病棟を入退院して過ごした。その病棟は、便利に作られていて浴室やコインランドリーも用意されていたので、私が看病に行った時には時々利用していた。
あるときランドリーに行くと、そこには二十歳にとどくかとどかないかくらいの若い女の子がいた。頭にはピンク色のバンダナを巻いている。薬の副作用のためだとすぐにわかった。傍にはその少女とそっくりな顔をした少年が、まるで三六〇度少女を護衛するようにぴったりと寄り添っている。おそらく双子の兄妹だろうと思われた。私はその光景に呆然と見入った。やがてあまり見つめては失礼と思い、居たたまれなくなって一旦母の病室にひきあげた。
裏磐梯 五色沼 |
単純な話題にするとしたら、おそらく「天使のような女の子に出会った。」ということになるだろう。ところが実際はそんな表現ではとても言い表せない。あの姿、眼差し、全身から放つ不思議な輝き、この世のものとは思えないようなより澄んだ光が強くも弱くも醸し出されているようで、どんなふうに語ればよいのか、絵が描けたら果たして表現できるものだろうか、パステル調の濃淡でそれは表されるものだろうか、それとも古いヨーロッパの教会に響く多声音楽だろうか。どれをとっても今ひとつのような気がした。
そしてあるとき、突き抜けるように閃いた。
ヘッセの「幸福論」だ。
しかし、これと確信しながらも同時に「幸福」とは全くの対極におかれているであろう少女と「幸福論」がどうして結びつくのか疑問も湧いた。ヘルマン・ヘッセはドイツの作家であり詩人だ。私の遠い記憶の片隅に追いやられたヘッセの詩の一部が少女と結びつくのかとも思ったが、とりあえず「幸福論」を読んでみた。
そこには少年時代のヘッセが、ある朝目覚めた時の光景と感覚が語られていた。見たこともない外国の風景、屋根瓦を照らす朝日の輝き。美しい情景と「幸福」に包まれた少年の朝のまどろみ。そしてヘッセの「幸福」に対する分析や感じ方。懐かしい気分で読み返した。
その後、6月のある日、用事があって昼間の電車に乗った。梅雨時でもその日はよく晴れ、夏の間近さを思わせた。昼間の電車に乗ると母を見舞いに出かけていたころを思い出す。私は暇にまかせて再び本を取り出した。
そして思った。
あの時の少女は当然のことながら幸福の中にいたわけではなく、また、その少女を目にできた私が幸福だったということでもなく、ただあの少女は「幸福が何かを知っていた」のではないか。しかも理屈ではなく心と体のすべてをして幸福たることの真の意味を認識していたのではないか。
そう考えて再び「幸福論」を読み進めると今度は涙が出てきた。不思議な光に包まれた少女の姿を通しながら、ヘッセが著した「幸福論」というものが初めて伝わってきたように感じられたのだった。そして電車に揺られながら、その感覚が私の中をいつまでも駆け巡り、乗った電車そのものをも包み込んでどこまでも永遠に走り続けるかのように思われた。
これからはあの時の少女の記憶とともに、ヘッセの「幸福論」を思い出すようになるのだろう。
「月に吠える」 「萩原朔太郎詩集」河上徹太郎編より 新潮社
「幸福論」 ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳 新潮社