2012-06-26
2012-06-21
夏至の緑
侵入者
そこは何事もないかのように思えた
静かな野原
しゃがみこんで遊ぶ少女
さわやかな風
流れる緑の草
ふんわりした少女のドレス
野に映えて
空を降ろし
やさしい水色を放つ
後ろ姿はいつものとおりのようだった
「ねぇ、何しているの?」
少女「・・・・」
小さな背中が軽くこちらに傾いた
「どうしたの?」
少女「うーん・・・」
風景はいつものように妖精の住処のように芳しい
しかし明らかに曇った少女の表情
「なんか変なの?」
ーソロモンー
瞬間
さらりとと聴こえた
「じゃあ、ソロモンのレイアウトに入る?」
そうして私は少女を素早くソロモンレイアウトに入れる
それは魔法の星
クリスタルの技
優しいクリスタルが少女を囲む
**
次の瞬間
鉛筆のような男の子が出現した
アオカビのように濁った身体
しなびた顔
つらそうな眼差し
「どうしたの?あなたは誰?」
応えずただ縮こまったしぐさ
耐えられない苦痛
声も出ず表現もできない
おお、なんという痛ましさ
封じ込められた堅い緑
「あなたが私でないならここから立ち去ってください。」
縮こまった鉛筆のような少年はくすんだ顔のまま離れていく
おお、どこに行くのだろう
地球の中に入れても清められない
宇宙に上げてもそこに浮いたまま
「元にいたところに一度お帰りなさい」
そこはたくさんのアオカビにまみれた楔が集まっているところであった
いつか天使が解いてくれますように
固まった楔もやがてクリスタルになり
光にもどるでしょう
きっと・・・
**
ふと気がつくといつものガーデンの中
風はいつものように静止したように穏やか
少女よ、どこにいるのか?
「大丈夫?どうしたい?」
少女「うん、あのね虹のお水に足をつけて遊びたいの。いっしょにきて。」
ああ、そこに居るのはいつものとびきり明るい少女の笑顔
そして声
「いいよ。行こう。」
美しい虹の橋の上に座り
足を虹の水に浸す
池のように泉のようにその水は七色に揺れた
今の出来事をきれいにしてもらいましょうね
わたしは少女のために祈った
大天使ミカエル
そして
大天使ルシフェル
どうぞこの小さなガーデンに来てください
***
さらに次の瞬間
わたしの右横にミカエルが立つ
そして少女の横にルシフェルが立つ
黒い美しい馬
黒い美しいルシフェルが虹のそばでドレスをまくり素足を水につっこんでいる少女をみつめる
少女「わーい、ルシフェルだー、ねぇねぇその馬に乗っけて!いいでしょ?」
少女は馬にまたがりはしゃぎまわる・・
はしゃぎまわる・・
おおはしゃぎである
「わぉ、ごめんなさいね、ルシフェル・・・ちょっと相手をしてあげてくれる?」
天使はただ相手をしてくれた
懲りずにまた来ておくれ
安堵したわたしがこっそり願う
2012-06-14
もしかしたら
2012-06-12
2012-06-08
月の輝く夜
月が輝く夜に
青い光を浴びたら
それは静かに部屋に差し込み
忍び込み
熱くも冷たくもない
それは人肌ほど
光が素足に触れたらわかる
何が来たのか
いつか観た直線を思い出しなさい
それはすべてが完全であることを伝えたものでしたね
永久に限りなくそれはあってそれは続く
悲しみは悲しみのままでいいのです
ただ流れていきます
安心していなさい
ドラマはドラマを作りたい人が作っています
それはそれぞれの使命なのです
それがたとえほんの少しの勘違いや思い込みでも
物語は限りなく壮大に紡ぎだされるでしょう
悲しみは悲しみのままにしておきなさい
そのまま流れていきます
安心していなさい
いつか観た直線を思い出しなさい
それはすべてが完全であることを語っていましたね
ただ蒼く白く
ほんのりたおやかに
筋状に灯す
しばらくは月に任せよう
あたりが夜明けに向かうまで
2012-06-07
龍の話
2012-06-06
金星の導き
グローリー
薔薇の季節は、実は結構長いですね。
種類によって、花が開くのに時間差があります。モッコウバラなど原種に近いものは、早く、大輪のティーローズなどは遅めで今も咲いてくれています。種類を選んで庭に植えれば、1か月以上楽しめます。
そして、伝えてくれるものもそれぞれ違うようです。いそがしいなぁ(笑)
先日、薔薇園で感じたのですが、真紅の薔薇って実は少ないということ。マジェンダに近いものは多いように思いました。
でもどれも胸にせまって本当に愛情豊か。
Crimson Glory |
クリムソン・グローリーというドイツで作出された珍しいというか誕生が比較的古い薔薇です。
これが、なんとも蕾がいわゆるジューシーで、まるで赤ワインに浸けたみたい。
イチゴの形にも似ていて本当に美しく愛らしいのです。
花も薔薇のイメージの王道をゆく真紅の豊潤な姿。
そんなこともあって、蕾をつけなかった今年は、ちょっと寂しめでした。枝もなかなか太くはならず、お世話は難しいみたい。これでもう来年もずっと咲かないのかな・・・と半ばあきらめかけていたところでした。
それがなんと一昨日根元から新しいシュートが。花をつけず力を蓄えて新しい枝にエネルギーを注いだんですね。
花が咲かなくても感動しきりでした。そういえば一度薔薇に向かって話しかけて、さらに祈ったっけな。それが天と薔薇の精霊に聞き届けられたみたいな気がしました。
2012-06-04
月と薔薇
2012-06-03
2012-06-01
萩原朔太郎~ヘルマン・ヘッセ
幸福論の風―2009年6月 母の思い出とともに記すー
春、桜の季節になると決まって思い出すのは萩原朔太郎の詩、『月に吠える』の中の「春の実体」だ。満開になった桜をどう形容したものか、桜を題した数限りない書物や表現の中、たいして読書量もない私が、偶然にも出会ったまさに釈然とする詩だった。「春の実体」のどの言葉というより、数行が成す一連の詩全体から湧き立つもの、匂い立つものが何より私の中の満開の桜を言い当てているのだった。そのことに気づいたのは大学生のころだったと思う。だからといってその詩を暗誦できるわけでも、特に萩原朔太郎に憧憬しているというわけでもない。ただ、「あの人のあの作品」と思い当たるだけのことで時々眺めてみたりするだけだ。こういうのを「第二の知識」というらしい。
昨年の五月、私は母を亡くした。一年半前、転院し最後の砦となった病院では緩和ケア(身体の痛みを和らげたり心のケアをおこなって、がんなどの治療と並行して行われる医療)病棟を入退院して過ごした。その病棟は、便利に作られていて浴室やコインランドリーも用意されていたので、私が看病に行った時には時々利用していた。
あるときランドリーに行くと、そこには二十歳にとどくかとどかないかくらいの若い女の子がいた。頭にはピンク色のバンダナを巻いている。薬の副作用のためだとすぐにわかった。傍にはその少女とそっくりな顔をした少年が、まるで三六〇度少女を護衛するようにぴったりと寄り添っている。おそらく双子の兄妹だろうと思われた。私はその光景に呆然と見入った。やがてあまり見つめては失礼と思い、居たたまれなくなって一旦母の病室にひきあげた。
今年に入り一周忌を過ぎても母の記憶は毎日のように蘇る。それとともに時折あの少女のことも思い出された。護衛をするように傍を離れなかった少年もそうだが、少女はいっそうの鮮烈さを持っていた。そしてほんの一瞬の出来事なのにすっかり私の記憶の一部になったその少女の姿や表情を何と表現したものかと思いめぐらしたりするのだった。
単純な話題にするとしたら、おそらく「天使のような女の子に出会った。」ということになるだろう。ところが実際はそんな表現ではとても言い表せない。あの姿、眼差し、全身から放つ不思議な輝き、この世のものとは思えないようなより澄んだ光が強くも弱くも醸し出されているようで、どんなふうに語ればよいのか、絵が描けたら果たして表現できるものだろうか、パステル調の濃淡でそれは表されるものだろうか、それとも古いヨーロッパの教会に響く多声音楽だろうか。どれをとっても今ひとつのような気がした。
そしてあるとき、突き抜けるように閃いた。
ヘッセの「幸福論」だ。
しかし、これと確信しながらも同時に「幸福」とは全くの対極におかれているであろう少女と「幸福論」がどうして結びつくのか疑問も湧いた。ヘルマン・ヘッセはドイツの作家であり詩人だ。私の遠い記憶の片隅に追いやられたヘッセの詩の一部が少女と結びつくのかとも思ったが、とりあえず「幸福論」を読んでみた。
そこには少年時代のヘッセが、ある朝目覚めた時の光景と感覚が語られていた。見たこともない外国の風景、屋根瓦を照らす朝日の輝き。美しい情景と「幸福」に包まれた少年の朝のまどろみ。そしてヘッセの「幸福」に対する分析や感じ方。懐かしい気分で読み返した。
その後、6月のある日、用事があって昼間の電車に乗った。梅雨時でもその日はよく晴れ、夏の間近さを思わせた。昼間の電車に乗ると母を見舞いに出かけていたころを思い出す。私は暇にまかせて再び本を取り出した。
そして思った。
あの時の少女は当然のことながら幸福の中にいたわけではなく、また、その少女を目にできた私が幸福だったということでもなく、ただあの少女は「幸福が何かを知っていた」のではないか。しかも理屈ではなく心と体のすべてをして幸福たることの真の意味を認識していたのではないか。
そう考えて再び「幸福論」を読み進めると今度は涙が出てきた。不思議な光に包まれた少女の姿を通しながら、ヘッセが著した「幸福論」というものが初めて伝わってきたように感じられたのだった。そして電車に揺られながら、その感覚が私の中をいつまでも駆け巡り、乗った電車そのものをも包み込んでどこまでも永遠に走り続けるかのように思われた。
これからはあの時の少女の記憶とともに、ヘッセの「幸福論」を思い出すようになるのだろう。
「月に吠える」 「萩原朔太郎詩集」河上徹太郎編より 新潮社
「幸福論」 ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳 新潮社
春、桜の季節になると決まって思い出すのは萩原朔太郎の詩、『月に吠える』の中の「春の実体」だ。満開になった桜をどう形容したものか、桜を題した数限りない書物や表現の中、たいして読書量もない私が、偶然にも出会ったまさに釈然とする詩だった。「春の実体」のどの言葉というより、数行が成す一連の詩全体から湧き立つもの、匂い立つものが何より私の中の満開の桜を言い当てているのだった。そのことに気づいたのは大学生のころだったと思う。だからといってその詩を暗誦できるわけでも、特に萩原朔太郎に憧憬しているというわけでもない。ただ、「あの人のあの作品」と思い当たるだけのことで時々眺めてみたりするだけだ。こういうのを「第二の知識」というらしい。
昨年の五月、私は母を亡くした。一年半前、転院し最後の砦となった病院では緩和ケア(身体の痛みを和らげたり心のケアをおこなって、がんなどの治療と並行して行われる医療)病棟を入退院して過ごした。その病棟は、便利に作られていて浴室やコインランドリーも用意されていたので、私が看病に行った時には時々利用していた。
あるときランドリーに行くと、そこには二十歳にとどくかとどかないかくらいの若い女の子がいた。頭にはピンク色のバンダナを巻いている。薬の副作用のためだとすぐにわかった。傍にはその少女とそっくりな顔をした少年が、まるで三六〇度少女を護衛するようにぴったりと寄り添っている。おそらく双子の兄妹だろうと思われた。私はその光景に呆然と見入った。やがてあまり見つめては失礼と思い、居たたまれなくなって一旦母の病室にひきあげた。
裏磐梯 五色沼 |
単純な話題にするとしたら、おそらく「天使のような女の子に出会った。」ということになるだろう。ところが実際はそんな表現ではとても言い表せない。あの姿、眼差し、全身から放つ不思議な輝き、この世のものとは思えないようなより澄んだ光が強くも弱くも醸し出されているようで、どんなふうに語ればよいのか、絵が描けたら果たして表現できるものだろうか、パステル調の濃淡でそれは表されるものだろうか、それとも古いヨーロッパの教会に響く多声音楽だろうか。どれをとっても今ひとつのような気がした。
そしてあるとき、突き抜けるように閃いた。
ヘッセの「幸福論」だ。
しかし、これと確信しながらも同時に「幸福」とは全くの対極におかれているであろう少女と「幸福論」がどうして結びつくのか疑問も湧いた。ヘルマン・ヘッセはドイツの作家であり詩人だ。私の遠い記憶の片隅に追いやられたヘッセの詩の一部が少女と結びつくのかとも思ったが、とりあえず「幸福論」を読んでみた。
そこには少年時代のヘッセが、ある朝目覚めた時の光景と感覚が語られていた。見たこともない外国の風景、屋根瓦を照らす朝日の輝き。美しい情景と「幸福」に包まれた少年の朝のまどろみ。そしてヘッセの「幸福」に対する分析や感じ方。懐かしい気分で読み返した。
その後、6月のある日、用事があって昼間の電車に乗った。梅雨時でもその日はよく晴れ、夏の間近さを思わせた。昼間の電車に乗ると母を見舞いに出かけていたころを思い出す。私は暇にまかせて再び本を取り出した。
そして思った。
あの時の少女は当然のことながら幸福の中にいたわけではなく、また、その少女を目にできた私が幸福だったということでもなく、ただあの少女は「幸福が何かを知っていた」のではないか。しかも理屈ではなく心と体のすべてをして幸福たることの真の意味を認識していたのではないか。
そう考えて再び「幸福論」を読み進めると今度は涙が出てきた。不思議な光に包まれた少女の姿を通しながら、ヘッセが著した「幸福論」というものが初めて伝わってきたように感じられたのだった。そして電車に揺られながら、その感覚が私の中をいつまでも駆け巡り、乗った電車そのものをも包み込んでどこまでも永遠に走り続けるかのように思われた。
これからはあの時の少女の記憶とともに、ヘッセの「幸福論」を思い出すようになるのだろう。
「月に吠える」 「萩原朔太郎詩集」河上徹太郎編より 新潮社
「幸福論」 ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳 新潮社
2007年の夜明け
2007年高3だった人へ贈った言葉
カルミア |
“無心”という状態を経験することがあります
自己が最もシンプルになり
まさに“生”そのものを実感する瞬間ともいえるでしょう
さらにそうした心持に遭遇したとき
自らの人生(過去・現在・未来)が一気に体中を駆け巡り
自分は何者であるか
自分は何をすべきか
という『内なる声』が込みあげ鐘のように響くことがあります
私たち人間はそうして成長しているといえるでしょう
人生の道しるべ
―『内なる声』を大切に―
2007/1/29
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カルミア
白く遠目には、優しいさりげない木花のようですが、近くで見るとその造形美に、はっとさせられます。
芯に轟くような熱情
星が弾ける音
正しい道しるべ
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