この1年、自分も含め病に伏した人たちと多く接した。51歳を過ぎた年回りとしてもそれであたりまえかもしれない。
不治の病を知りつつも、実はどこかで病は必ず治るものとして認識していた自分に気が付いたのは数年前に母を亡くしたころだったかもしれない。
そしてさらにそんな気づきも覆るという世界にちょっと足を踏み入れてみた。しかし、やはりそれはなんとおめでたい思考なのかというふうに言っておくしかない。
それが一般の世の常識的な「思い」だからだ。
そうでなければどうして東北で被災した人々に寄り添えるだろう。
そうでなければどうして不慮の事故で罪のない子を失った親に向き合えるだろうか。
その世界では、死はちょっとした出来事のように言ってみせる人がいたりする。目覚めていれば癌も治っているはずだろうと豪語する人がいる。津波にさらわれた人々はもうそのことが決まっていて光になって救われていると直後に書いたりしている人がいる。その世界を知った人はその世界を知らない人よりも優れているかのようにふるまったりする人がいる。
そんな無神経な人は決して悟ることも目覚めるということもないだろう。
その世界での盲点は読み手によってあまりにも認識の幅がありすぎるということだ。
簡易な言葉は深みと浅はかさの両方を兼ね備えている。
目覚めた者とは依然として少数だ。
感性と読解力のない者は光を前にしながら簡単にもう一つの呪縛にかかるだろう。