2016-03-22
2016-03-12
3月11日のこと
実は地震の前日都内にいた
帰り際あまりのドブのような異臭に驚いた
周囲のビジネスマンたちは全く意に反さず普段通り歩いているように思えた
ふとビルの谷間の空を見た
不吉とはこれをいうのだ
という典型的な雲が立ち上がっていた
あっと思い早く帰るしかない
なにか起こるにしても家にいたい
地下鉄が怖い気がしたが
が術なくそれに乗って
私は帰った
そして翌日の職場での巨大地震
東日本大震災
14時すぎ
東京の学校の9階にいた
揺れの恐ろしさが腰にきた
走れるか心配になった
居合わせた人に火の元を消すように指示し
エレベーターに乗ろうとした人を静止して階段を駆け下りた
この時強い胃痛に襲われた
ああ、何か大きな出来事が起こる
未曽有とはこのことだ
私のいる場所ではない離れたところ
でも感じる
その40分後くらいに東北は巨大な津波に襲われた
テレビで映し出された
血の気が引いた
携帯がつながらないので事務の固定電話を借りた
津波は来ないところに住んでいるけど40年くらい経った家にいた父親を思い出したから
校庭には地下の体育館から大きなクラブの生徒が飛び出してきた
そして校舎に入ることができず前庭に何十人かで立ち尽くしていた
電車は止まり帰れない
荷物を取りに再び校舎に入れる許可さえ教頭は躊躇している
また大きな余震があったとき建物が無事か確信が持てないからだ
無駄に時間が過ぎた気がした
やがてもう電車は動かないだろうから歩く覚悟を決めさせる動きになり
グルーピングをし始めた
そして余震前の異臭
こちらは嗅覚を通しての直観だった
車をもっていた私は歩けないだろう私の家の近くに在住している生徒を3人車に乗せて川を渡ろうとした
そのとき余震が起こる
今まで感じた事がないくらい橋が揺れる
橋の向こうが生徒の家、私の家
遠くは火災の様子はなかった
早く渡りたかった
けれども道路は当たり前のように渋滞していた
やっと帰れた
一人だった
だれも帰ってこない
東北から遠く離れたこの街でさえみな我が家で家族がそろうことがないのだ
さらなる不幸は
福島の原発が爆発したこと
デマも飛んでいた
違う恐怖が頭を巡る
翌日ひとりでカーテンを少しだけ開けて外を観た
巷はなぜかピンク色に見えた
そして私のスピリチュアルな直感とガイドが言い放った
絶対に外に出るな
窓さえも開けてみるな
ほんの少しも開けるな
今までで一番強い語気だと思う
誰も信じないだろうが
確かにスピリチュアルなガイドがいるのだと思った
そしてそのガイド内容(私の直感)は正しかった
放射能が漏れたのだ
遠く福島からここまでくると
2日間は絶対外に出るなと
カーテンも閉めておけと
私のスピリットが言う
私はそのようにした
その後巷の色合いがピンク色が薄まったのをみた
こんなときは直感に頼るしかない
こんな時は直感がものすごい勢いでやってくる
わたしはクレアオーディエンスでもあり
クレアボヤントでもあり
つまりはクレアセンセンスなのだ
早急な判断ではよく使っている
その判断の基準や訳もすぐに頭に上ってくる
2016-03-10
思考体エネルギー
長らく疑問であったことに気づきが訪れました
大げさ?
いや決して大げさではないと思う
スピ系では、感情の解放とハートを大切にというフレーズが並ぶことが多い
思考を止めて
とまで言ったり書いたり・・
違和感がずっとあった
思考をやめてハートに従えとかいう言い分は
おそらくハートの重要性を強調するためであり塞がったハートを開かなければならないという差し迫った状況が続いていることからだろう
そのため思考を引き合いにして語られることになった
思考よりハートだと
そうすれば本来の自分に目覚める
抑制された感情を過去にさかのぼって探しだし解放する
ハートセンターが大切なのは理解できる
怒りも恐れも思考でなくハートを通すことで違ったものに変化させることもできると
思考の役割がいらないくらいにまで言う人や活字があったりする
まてよ
それは本当か?
では思考はどうなってしまうのか
生まれたままの自分になって・・・とか
そんなこと言ったら人々の世界はどうなるんだろう
今すぐそれでどうなってしまうんだろう
世界中の悲惨な出来事は幻想だから見なくていい、考えなくていい
くらいのこと流布することは果たして正しい選択だろうか
明日の食糧に困っている子供が亡くなったらそれはその子の運命で
その子の選択なのだというのか
大震災で流された人々はすべて自分で選んだ結果だというのか
みな死ぬことで救われているというのか
それを聞いた母親はどう思う?
家族は納得しいきいき生きられるようになるとか?
あまりに短絡的だ、そう考えていない
思考過多は確かにしんどいことになることがある
だがそれが当てはまる人はどれだけいるのだろう
思考体は人間ならではのエネルギー体だ
これをどう使うのか
どちらかというとその切込みのほうがまっとうだ
思考体という存在を認めることから始めるのは今だからこそ大切だろう
大げさ?
いや決して大げさではないと思う
スピ系では、感情の解放とハートを大切にというフレーズが並ぶことが多い
思考を止めて
とまで言ったり書いたり・・
違和感がずっとあった
思考をやめてハートに従えとかいう言い分は
おそらくハートの重要性を強調するためであり塞がったハートを開かなければならないという差し迫った状況が続いていることからだろう
そのため思考を引き合いにして語られることになった
思考よりハートだと
そうすれば本来の自分に目覚める
抑制された感情を過去にさかのぼって探しだし解放する
ハートセンターが大切なのは理解できる
怒りも恐れも思考でなくハートを通すことで違ったものに変化させることもできると
思考の役割がいらないくらいにまで言う人や活字があったりする
まてよ
それは本当か?
では思考はどうなってしまうのか
生まれたままの自分になって・・・とか
そんなこと言ったら人々の世界はどうなるんだろう
今すぐそれでどうなってしまうんだろう
世界中の悲惨な出来事は幻想だから見なくていい、考えなくていい
くらいのこと流布することは果たして正しい選択だろうか
明日の食糧に困っている子供が亡くなったらそれはその子の運命で
その子の選択なのだというのか
大震災で流された人々はすべて自分で選んだ結果だというのか
みな死ぬことで救われているというのか
それを聞いた母親はどう思う?
家族は納得しいきいき生きられるようになるとか?
あまりに短絡的だ、そう考えていない
思考過多は確かにしんどいことになることがある
だがそれが当てはまる人はどれだけいるのだろう
思考体は人間ならではのエネルギー体だ
これをどう使うのか
どちらかというとその切込みのほうがまっとうだ
思考体という存在を認めることから始めるのは今だからこそ大切だろう
2016-03-02
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